思い出づくり研究所レポート

思い出を残すために -写真から家族の歴史が見えてくる-

写真を見る体験が新たな思い出をつくる

文:平嶋 彰彦

フィルムでもデジタルでも、大事なことは、いつプリントするかというよりも、必要に応じて、いつでもプリントできる状態に整理をしておくことではないかと思う。

 写真は写すよりも、そのあとの整理にうっかりするとそれ以上の時間がかかる。これはかつて携わったグラフ雑誌の取材でも、いま続けている趣味の町歩きでも、基本的には変わらない。
プリントするのも整理の仕方のひとつである。目的が作品づくりや家族アルバムなら、整理といっても、それ自体が最終段階の仕上げ作業になる。これは撮影したらすぐにやっておくのがいい。「鉄は熱いうちに叩け」の諺のとおりで、時間がたつとなおざりな作業におちいりやすいからだ。

 だが、一般論でいえば、フィルムでもデジタルでも、プリントすると、元々あった情報量は大なり小なり損なわれる。そもそも印画紙の再現能力には限りがあるし、プリントするサイズによっても違ってくる。カラーポジやデジタルの場合は、使用目的がはっきりしない段階で、むやみやたらプリントすることは勧められない。
昨年、インドネシアと韓国に旅行した。民俗調査が目的で、希望する人たちには、撮った写真をDVDに焼いて送った。どちらも400~500のカット数だったが、DVDだと1枚に収容でき、経費はメール便の80円をくわえても200円もかからない。データは大きいから、A4見開きサイズに印刷しても充分な解像力がある。メールでやりとりするなら、データを小さくすればいい。安いうえに、もらった人の使い勝手はプリントとは比べものにならない。

 会社勤めを辞めてから続けている町歩きの写真も、民俗資料として残すのが目的である。最終的な表現の形を、デジタルにするか紙の印刷物にするかは、これから考える。目下のところはパソコン上で決着する整理段階だから、プリントはなくてもすむ。プリントすれば、それをまた整理しなければならなくなる。また3LDKのマンション住まいでは、それを置く場所さえままならない。
大事なことは、いつプリントするかというよりも、必要に応じて、いつでもプリントできる状態に整理をしておくことではないかと思う。そうした意味からも、写真を撮って家に帰ったら、画像の確認と画像調整だけは、その日のうちにすますようにしている。そして翌日には、写真の撮影地とその背景にどんな事情があるかを調べ、簡単な文字資料をつくっておくのである。
用事がたてこんで、できない場合も少なくない。それでも、最低限のことはやっておく必要がある。画像を外付けのハードディスクにフォルダーをつくって取り込み、フォルダー名には撮影の年月日と代表的な撮影地を2カ所か3カ所、それにキ―ワードをつけ加える。例えば旅行であれば、[家族旅行]という具合だ。それだけやってあれば、他人ならいざしらず、少なくとも自分が捜す限り、どこにしまいこんだかわからないというようなことはなくなる。

 毎週のように遊びにくる孫の写真も、町歩きの写真と同じように、撮影年月日と場所、そしてキーワードに孫の名前をつける。最初のうちは、町の写真店でプリントしたものを渡していたが、いまは2カ月か3カ月分をまとめて、娘が私のパソコンから画像データを引き出して持って帰る。娘と私では写真の好みが違うから、その方がいい。最終的な写真選びはアルバムづくりの責任者にまかせるのが合理的だと思う。
娘は写真をプリントしてアルバムにするだけではない。気にった写真を額に入れたり、コラージュしてパネルをつくったりして、玄関や居間に飾っている。前回も書いたようにカレンダーも自作であるが、月々の写真は1年前の孫の姿という編集の仕方をしている。自分の携帯電話で撮った写真が多いのだが、もちろん私の手になるものもある。あくまでも部屋の装飾がねらいだろうが、家族だけの小さな展覧会の感があって、ときどき写真が入れかわっていくのも楽しい。
子どもは3歳にもなれば、写真に何が写っているか、片言ながらでも口にするようになる。写真は本棚の隅から住まいあちこちに進出することにより、家族の間で会話が生まれる。思い出に新たな体験が書き加えられるのだ。写真は思い出を残すばかりでない。私たちが親だった時代とは違って、思い出をつくることが写真に期待されているのである。

(筆者プロフィール)
平嶋 彰彦
写真家、編集者。元毎日新聞社出版写真部長、ビジュアル編集室長。『宮本常一写真・日記集成』上下巻別巻1、『宮本常一が撮った昭和の情景』上下巻(いずれも毎日新聞社)の編集を担当。共著に『昭和二十年東京地図』(筑摩書房)『町の履歴書・神田を歩く』(毎日新聞社)などがある。